1908年、アメリカのマサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCA体育学校で学び帰 国して、東京YMCA体育主事となった大森兵蔵が初めて日本にバレーボールを紹介したといわれて います。しかし、彼は1913年に死去したため、本格的な普及には至らず、同年、フランクリン・H・ ブラウンがアメリカYMCAから派遣されて来日し、紹介普及を手がけました。東京だけではなく関 西方面 (神戸)にも出かけて行き熱心な活動がきっかけとなり広く知れ渡りました。はじめは4人 が4列に並んでの16人制だったそうですが、その後12人制となったのを経て9人制固定式ルール が確立されました。 (中国やフィリピンでも同じ9人制があったために「極東式」とも呼ばれた。)
そして、1927年に大日本排球協会が設立され、今日の日本バレーボール協会(JVA)の基礎とな りました。それと同時にフィリピンや中国を中心に行われていた極東選手権大会 (1913〜1934)の 正式種目として登場し、レクレーションスポーツではなく競技スポーツとして発達していったので す。第二次大戦後、物資不足の日本では用具や施設に費用のかからないバレーボールが最初に復興 したスポーツであり、競技人口も急激に増加し、当時のスローガン「100万人のバレー」は瞬く間 に達成されました。これらはすべて9人制であり、現在でも親しまれていますが、1951年に世界バ レーボール連盟に加盟した後、日本における6人制バレーボール(国際式ルール)の研究開発が1953年の 早稲田大学チームの渡米から始まりました。
しかし、日本が本格的に国際舞台への進出を決意し、推進したのは196年にブラジルのリオデジ ャネイロで開催された男子第4回、女子第3回の世界選手権大会で日本代表を派遣した結果、男子 8位、女子2位の成績をあげました。東京オリンピック(1964年)の数年前から急速に日本の6人 制バレーボールの競技力は向上し、日本バレー界の最も輝かしい時代がやってきました。
現在、世界のバレーボールでは当たり前になっている戦術の多くが、この時期、世界と戦う ために常識を超えた発想の中から作り出され、バレーボールが「日本のお家芸」とまでいわれる ようになったのです。「高さ・力」の概念しかなかった世界のバレーに「精密さ・速さ・時差・ コンビネーション等」という概念を加えたのが日本のバレーボールでした。
1962年ソ連のモスクワで行われた世界選手権で女子が初優勝、男子が5位、さらには1964年の 東京オリンピックで(バレーボールがオリンピック正式種目となった)女子が「回転レシーブ」を あみ出して金メダル、男子が銅メダルを獲得しました。1968年のメキシコオリンピックでも 男女ともにソ連に続き銀メダルを獲得しました。この時、男子チームは9人制時代から使われていた 「Aクイック」をヒントにBクイックや様々な速攻と時間差攻撃を考えだし、「フライングレシーブ」 を開発して攻守にわたって相手を翻弄したのです。
「コンビバレー」を武器に1972年のミュンヘン大会では、男子が金メダル、1976年のモントリオ ール大会で女子も金メダルを獲得しました。当時、国内では空前のバレーボールブームが起こり、 小学生からママさんまでの著しい普及と発展を遂げました。
しかし、その後、バックアタックの多用やラリーポイント制の導入(1998年)といった大きなルー ル改正も行われて世界が「分業制バレー」や「パワーバレー」を目指すようになり、体格や身体能 力で劣る日本は苦戦を強いられるようになりました。この時期から現在に至るまで日本の世界にお ける地位は大きく低下していったのです。世界におけるバレーボールの競技は技術力の向上、指導技 術・練習方法の改善やバレーボール競技そのもののメジャー化(プロ化)にともない、その競技レベル は急激に向上しており、近年の日本のバレーボールは創造性がなく海外理論の模倣にとどまり、国際競 技力は長期低落傾向に陥っている状況です。